前回からの老荘思想、続ける。
人間が不幸になるのは〈作為〉するからである、と老子は言います。〈作為〉とは単純に言えば「余計なことをせずに太古から変わらない生活」(大場、p.28)を捨てて、「人為的頽廃的な社会」(小島祐馬『中国思想史』p.121)を構築し維持し生活することになります。東洋史学者の小島祐馬(おじま・すけま)は、これを「非文化主義」と言っていますね、ここで小島の『中国思想史』(KKベストセラーズ)という本がさり気なく出てきましたが、これはもう少し後で話しましょう。
「余計なことをせずに太古から変わらない生活」をすること(=非文化主義)が、「道」の調和を乱さないことの第一義で、これを老荘思想では「無為自然」と言います。
前述の小島祐馬は、老荘思想についてこう語り出します。
老子の思想は、周末の社会状態に刺戟されて起こった一種の社会改革論であり、その理想とするところは、当時の人為的頽廃的な社会を否定して、純撲な自然社会に帰することである。老子の学説の根本は道の一字に尽きる。老子に従えば、人間の最上の善は道に従うこと、すなわち自然に順応することである。
小島祐馬『中国思想史』(KKベストセラーズ)、p121
ただし、ここで言う老子の「自然」とは、「人間の欲望を際限なく増長し自由競争に放任するものではなく、かえってこれと反対に、無欲と不争をもって自然の要素と考える」(前掲書、同頁)ことなのです。
つまりは「自然」とは〈放縦放埒〉に生きることなのではなく、〈恬淡無欲〉〈謙下不争〉に人生を過ごすことなんですね。
さらには、こうも続けます。
老子は、一面万物の根源は無であるとして、「天下の万物は有より生じ、有は無より生ず」という。かかる点より見れば、老子の見た宇宙の本体は、これを形式的には道というが、実質上は無である。この道すなわち無は、万物に超越すると同時にまた万物に周行しており、宇宙の森羅万象は一としてこの道すなわち無の作用でないものはない。老子はこのことを「道の常は無為にして、しかも為さざるなし」と言いあらわす。ここに老子はその理想とする非文化主義をもとづけんとするものである。(中略)そののち老子に限らず道家の思想を目して虚無思想というのはこれに始まる。
この無は何者からも制約されない自立的なものであることから、老子ではこれを自然と呼ぶ。
前掲書、p.122
「道」=「無(虚無)」であり、その「道」の調和を乱さないことを「無為自然」という。
老荘思想は当時の儒家思想への批判として登場しましたが、老子においては儒家のいわゆる道徳すなわち仁義礼楽すらも元より自然でもなく道徳でもないとするのです。(この項、つづく)